©DAN PARSONS

身是菩提樹 心如明鏡台

時々勤払拭 莫使惹塵埃

 

この身(からだ)は菩提樹のように尊い悟りの木であり、心もまた鏡のように清浄なもの(明鏡台)だ。それ故に日々拭き清めて塵が積もらぬようにしておかなければいけない。

 

元来、寺院は仏法を学び、信仰の実践を行う道場であり、また、戦時中『寺子屋』と呼ばれていたように、教育の場であり、あまたの人々が集う地域の中心的な役割を果たして来ました。しかし、現代、皆さまは、寺院、さらには、住職をどのようにお考えでしょうか。

 

菩提本無樹 明鏡亦非台

本来無一物 何処惹塵埃

 

悟りといっても、身心のどこを探しても、そこに菩提の木があるわけではない。明るい鏡といったとしても、心に台があるわけでもない。菩提とか明鏡とかいったものがあり得よう。本来は何もありはしない。ありもしないところに、どうして塵が積もるものか。

 

私が敬愛する慧能大師の詩です。また、私が好きな本のひとつに世界中の誰もが知る『星の王子さま』に、このような一節があります。

 

星があんなに美しいのも 目に見えない花が1つあるからだよ

砂漠が美しいのは どこかに井戸を隠しているからだよ

 

『オモイ』には、色も形もありません。しかし、人は、そのような大切で温かな『オモイ』に触れることが出来たとき、感動したり、頬を伝う涙があるのだと信じております。本当に大切なものは、時には 目には見えないものなのかもしれませんが、私はその大切なものをひとつひとつ『カタチ』に 目に見えるものにしていくことこそ、1人の僧侶としてばかりでなく、1人の人間として歩むべき道であると考えております。

 

両親の温かな愛情により、この世に生を享け、先達の細やかな教育により、この世ので生を育み、同志の柔らかな友情により、この世で生を分かち合い、私たちは『今』を生きています。歴代の祖師たちが築き上げてきた素晴らしい教えを胸に刻み、この情報化社会の中で失われつつある信仰の種に実りをもたらす『心のよりどころ』として、様々な人々が目に触れることが出来るような『カタチ』ある場であることを、数多くの人々が訪れることが出来るような『カタチ』ある場であることを、心より祈念し、当寺のホームページ開設のごあいさつに致します。

 

曹洞宗 渓谷山 保壽寺 第22代住職 伊藤孝裕