渓谷山(けいこくざん)保壽寺(ほじゅじ)の歴史
今から約450年前の永禄11年(1568年)に現在の仙台市太白区秋保町境野に創建された。開山は、松山永照大和尚(神奈川県小田原市海蔵寺5世)。開基は、境野信濃盛久。創建までの歴史的背景は、以下の通りである。
約830年前の寿永3年、屋島の壇ノ浦の源平合戦に敗れた平重盛の孫長基は、平家伝来の宝物及び書籍を携えて、紀伊の国(和歌山県)熊野に逃れ、平家の縁故者熊野の八庄司の左衛門之丞国長の家に潜伏し、翌年の文治元年4月、国長の長男を道案内として主従18名にて熊野を出発した。この一行に定義の貞能公も同行しており、日本海側北国を下り出羽国(山形県)に至り、羽黒山を参拝し、山寺に至り、陸奥国(宮城県)境たる奥羽山脈を越えて、文治2年の春の末 新川の地(仙台市青葉区新川)に出られた。
長基公は、この新川で逝去さられ、お墓として五輪塔を建てられたと伝えられている。その後、長基公の長男の基盛が、父の死後、秋保に移られた。基盛の孫(子は俊盛)盛定の代になり、奥州管領より秋保5ヶ村(長袋 境野 湯元 馬場 新川)を与えられ、姓を秋保と名乗った。
秋保家は、長袋(仙台市太白区秋保町長袋)の館山に城を築かれて秋保村を治め、長基公より14代目に秋保家より分家をした人物こそが、秋保盛久であり、今から約450年前の永禄年間(1558年から1570年 室町時代)に境野村と新川村を分地として姓を境野と名乗った。
境野盛久は、保壽寺を創建し 戒名を保壽寺殿と称し、この故に、境野村及び新川村の菩提寺となり、現在も数10km離れた当寺を檀家として参詣している。